私は今非常に困っている。
BOSSからの逆オファーではない。念のため。
およそ20年前の私はそれはもう立派なクズで、自分で自分のことを生きてるゴミだとさえ思っていた底辺スレスレの青春時代を過ごしていたのではあるが、幼少期はそれはそれは大層なええとこの子だったのだ。
数々の習い事と塾に通い、高校は私立の進学校へ通わせてもらっていた。その数々の習い事の中にバイオリンとピアノがある。私には5つ離れた姉がいるのだが、彼女は大層飽きっぽい性分で、彼女が飽きた習い事が自動的に私に回ってくるという仕組みだ。
ピアノもバイオリンも3歳になる前から始めたらしいのだが、その頃の記憶はまったくございません。
学業、部活、習い事。本当によくやっていたと思う。レギュラーを5本ほどかかえてる芸能人並みの忙しさだった。バイオリンは高校進学の頃に辞めたけれど、ピアノは特に意味もなくダラダラと続けていた。意識はないがたぶん好きだったのだろう。高校に進学してからその先の進路についてどうやら担任は音大にでも行くのだろうと思っていたらしい。私もなんとなくそんな気はしていた。
結局は音大には行かずクズ道一直線の転落劇を味わうことになるのだが。とにかくなんやかんやでピアノだけはスロクズになってからも続けていた。受験中だとか多少のブランクはあったけれど、ちゃんと先生について習っていたのは通算で18年ほどになる。スロクズ時代も夜の店でピアノを弾いたりピンチヒッターでちゃんとしたオーケストラで弾いたりしていたものだ。あ、バイトですよ。バイト。もちろんクズなんでタダではしませんw
家には骨董的価値のあるちょっと有名なピアノがあった。祖母の持ち物だったらしいのだが、とある条約の締約国となり販売や流通もできなくなる前に母親が「ピアノなんてどれも一緒!」と言う理由で売ってしまったのだ。バブルとの相乗効果でそれはもう大層な値段がついたらしい。どれも一緒というのは乱暴だが、まあ確かに調律やらメンテナンスやらで維持費も大変なようだった。そのピアノの代わりに家に来た子はヤマハのアップライトピアノだった。悪くはなかったが音色やタッチのちょっとした違和感が気持ち悪くて家ではあまり練習しなくなった。長年ウチのピアノの調律を担当している「ちょっと有名なピアニストのコンサートピアノの調律」も担当している調律師にいろいろ頼んではみたものの、やはり楽器自体の限界はあるようだった。
それが進路を決めるあたりの出来事だ。当然なんだけれど、音大のピアノ科なんて受験する気も失せちゃったよ。それからだね。クズ道一直線。
まあそれはよしとして、そういう理由で私はちょっとピアノが弾けちゃったりするのだ。ピアノはいつからか電子ピアノになったが、最近の電子ピアノはなかなかのもので、昔使っていた骨董品のタッチや響きもかなり近いものにカスタマイズできちゃうのだ。新機種が出たら適度に買い替えたりしてピアノはいつも身近にあるのだ。
そのピアノで私は困っている。
私は変人なのだが一応社会人であり、現在の職場にも履歴書を提出して面接を受けている。その履歴書の趣味の欄に「ピアノ」と書いてしまっているのだ。面接のときはそんな話題すら出なかったのに、つい先日人事のおっさんから
「◯◯さんって確かピアノ弾けるんだよね?」
すべてはこのおっさんのあやふやな記憶から始まったのだ。
私「あ、ええまあ、ちょっとですが」
お「えーと、アレ弾ける?アレアレ。ほらアレよ。なんとか即興曲!」
私「幻想即興曲ですか?」
お「そうそうそれそれ!弾ける?」
私「あ、はい」
このおっさんとショパンには悪いが幻想即興曲というのは今や小学生レベルの曲なのだ。かのショパンが他の曲に多大なるインスパイアを受け結構な難易度で作曲したのはいいが、まさか小学生レベルの練習曲として日の目を浴びるとは思ってもいなかっただろう。確かに印象深い旋律と見応えのある早い手の動きで難しそうなんだけれどね。
お「じゃあさ、◯◯医師会のオーケストラに出てあげてよ!ピアノ探してるんだって!実はちょろっと話しててもう断れないんだよねー」
◯◯医師会のオーケストラとは、医師や看護師で構成されているクラシックバカの集まりなのだ。当然といえば当然なのだが、医師はボンボンが多い。ゆえのクラシック音楽でありオーケストラなのだ。高尚な趣味ですこと。なんてゆーか、一度資料映像を見たことがあるのだが「まさしくそれっぽい人の集まり」だったのだ。私と合うわけないじゃん。しかもオーケストラにピアノってことは、つまり協奏曲とかやるんでしょ?無理無理無理。
お「ただとは言わないから」
私「やらせていただきます」
話は2秒で決まった。
さてオーケストラでピアノってことはもちろん協奏曲(ざっくり言うとピアノとオーケストラのコラボね)をやるのだが、ピアノ協奏曲というのはソロあり伴奏ありの体力勝負覚悟で挑まないといけない。もちろん曲にもよるのだが。
とりあえず打ち合わせして曲をもらわないことには始まらない。
協奏曲でのピアノソロパートというのは指揮者の特別な指示も飛んでこないので(基本リハ通りだが)本番では演奏者が曲を引っ張り割と好きなように演奏できちゃうのだ。まあセンスが光る部分でもあるかな。難しいのはオーケストラとのバランスなのだ。音量(ホールによってかなり違ってくる)、スタートタイミングなど。アーティストのライブのようにイヤモニなんかないので、すべては自分の耳と指揮者の指示を丸腰で信用して演奏する。
そして打ち合わせ。もらった曲はやっぱりドがつくクラシックだった。まあやったことある曲だし3〜4回合わせたらいけるでしょ。なんて思っていた。本番は9月のシルバーウィーク。楽勝楽勝♪
そしてこないだの土曜日練習があった。6時集合と聞いていたのに、さすが医師や看護師の集団だ。誰も定時にくることはなかった。
私はヒマそうにしてるバイオリンその1(誰かは知らない)と2人でテキトーに音合わせや指慣らしをしていた。
練習曲を弾いていると指揮者が「あー忙しい忙しい」みたいな体でやって来た。
「ちわー」
「これ誰のなんて曲?」
私が弾いていた練習曲はクラシックではないのだ。ネットとかで探すと見つかるのだが、OSTER projectの鬼火という曲だった。この曲はいわゆる機械での演奏用に近年作曲された曲で正式な楽譜もあるかどうか定かではない。私はネットでアップされてるマニアが採譜したと思われる楽譜と耳コピで覚えたのだ。
そう伝えるとえらく食いついて来た。
他には?と聞くので、ゲーム音楽で蠍火って協奏曲ありますけど。
YouTubeで探して聞かせると「いいね、これやろう」
ちょっと待て。正式な譜面があるのかさえわからないし、もし譜面がなければ全パート原曲聞いての採譜だぞ。それに私はまらしぃさん(若きオタク系ピアニスト。腕は確か)のショートバージョンはなんとか弾けるがロングでオーケストラと合わせて弾く自信はまったくない。このバカ指揮者め。
9月までにどう仕上げるのだ。
この蠍火という曲ははっきり言って難しい。人間が演奏することを前提に作られていないのだ。だから私もショートバージョンではテキトーに音を減らしたりアレンジしたりしてそれっぽく弾いているのだ。初っ端から発狂ゾーン(傾奇ゾーンともいう)の連続でショートバージョンでも腱鞘炎になるくらい激しい動きをする。
フルバージョンで8分超えの曲である。ピアノ協奏曲のためほぼ出ずっぱりなのだ。後半の発狂ゾーンをオーケストラを気にしながらなんて弾いてられるか。それともお前らが私に合わせてくれるのか?本番では指揮なんて見ないし指示も守る自信ないぞ。
まあ興味のある方はYouTubeで探して聞いてみてほしい。聞いてるほうも発狂しそうなくらいの曲なのだ。
どうしよう。絶対ブザマな結果しか見えない。しかし医師や看護師たちは前向きだ。8分超えの曲の採譜もするようだ。なんかおかしい人たちに見えてきた。傾奇通せるわけがないのだ。
ネットからパクってラクをしようと思えばできるのだが、ネットに出回ってる蠍火のピアノパートの楽譜は私好みではないのだ。機械での演奏が前提なんだからしょうがないのだが、もっと音に厚みと重みが欲しいのだが人間の手には限界がある。ほんとにどうしよう。
そして今月末の締切を目指して犬たちの世話をし、家事もこなし愛用の電子ピアノでヘッドホンを付けてYouTubeを見ながらせっせと蠍火のピアノパートを自分好みにアレンジしている。
何が可笑しい。すべては金のためなのだ。